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野宮真貴が語る「90年代・渋谷系・母として」 [FRaU]
2017年07月12日(水) 20時00分配信
精力的に音楽活動を行いながら、植物療法士としてオーガニック口紅などのヘルス&ビューティーのプロデュースをしたり、エッセイを執筆するなど、多方面で活躍中の元ピチカート・ファイヴのヴォーカリスト・野宮真貴さん。
最新アルバム『野宮真貴、ヴァカンス渋谷系を歌う。』にはじまり、’90年代渋谷系のこと、母、女としての生き方までを訊きました。
最新アルバム『野宮真貴、ヴァカンス渋谷系を歌う。』にはじまり、’90年代渋谷系のこと、母、女としての生き方までを訊きました。
『野宮真貴、ヴァカンス渋谷系を歌う。~Wonderful Summer~』
――ずっと聴いていられるような、サマー・アンセムというか、夏のミックステープみたいなアルバムですよね。
「そうそう。カセットのね。昔よくボーイ・フレンドが作ってくれたような。
昔はサマー・アルバムというジャンルがあったんですけど、最近はなくなったのであえてそういうものを作れたら面白いかなと思って」
――野宮さんがプロデューサーの坂口修さんとタッグを組んでスタートした「渋谷系スタンダード化計画」も、5年目を迎えましたね。
「私、今年でデビュー36年になるんですけど、ソロでデビューしてポータブル・ロックというグループをやって、’90年にピチカート・ファイヴの3代目ヴォーカリストになって約10年間活動をして、その後に解散してソロになって、シアトリカルな舞台をやってみたりいろいろ試行錯誤していました。
それで、デビュー30周年のときにセルフカバー・アルバム
『30 〜Greatest Self Covers&More!!!〜』を出しまして、ピチカートの曲が中心ではあるんですけど、久しぶりに自分が歌ってきた楽曲をセルフカバーして、改めて渋谷系の曲には名曲が多いなと思ったんです」
――時間を経て、渋谷系の良さを冷静に振り返ることができたと。
「そう、今歌っても全然古くないというか、名曲には風化しないすごさがあるんですよね。もう渋谷系の音楽をスタンダードナンバーとして歌ってもいい頃なんじゃないかと思ったんです。
それで、ピチカートやオリジナル・ラブ、フリッパーズ・ギターのような’90年代渋谷系を代表するアーティストだけじゃなく、バート・バカラックやロジャー・ニコルズといった私たちが影響を受けてリスペクトしているアーティストの名曲もひっくるめて、「野宮真貴、渋谷系を歌う。」という活動をしていこうと」
――カバーすることの楽しさを見出したのは、セルフカバーをしたタイミングだったんですか?
「10年間、小西康陽さんの曲だけを歌ってきたから、ソロになってから新しくいろんな方に曲を書いていただいて、自由にプロデュースしてもらうのもすごく楽しかったんですね。
でも、昔のシンガーって過去の名曲をカバーして、あたかも自分のオリジナルであるかのように歌い継いでいくでしょう。
そういうふうに、渋谷系をスタンダードナンバーとして歌っていくのも私の役目かもしれないと思って」
――スタンダード化計画は今後どう展開していくんですか?
「とりあえず、2020年の還暦まではやろうかなと(笑)。秋にリリースする次のアルバムは、「野宮真貴、ホリデイ渋谷系を歌う。」がテーマで、クリスマス、ニューイヤーまで聴けるようなものを考えています。
渋谷系やルーツとする曲を歌い継いでいく、というシンガーとしての役目があると思うと、まだまだいい曲はたくさんあるので、ずっと歌い続けられますね」
――“渋谷系” というタームに対しては、当時と今、どういう捉え方をしていますか?
「当時は他人事みたいに思ってました。そういうふうに呼ばれているらしいよ、くらいの。
でも、今はもうがっつり「渋谷系を歌う。」と表明してますから。実際 “渋谷系” と呼ばれる代表的なグループとして歌ってきたわけだけれど、意外とそれをずっと歌い続けている人って、いそうでいないから」
――渋谷系は音楽としての幅も広く、人によって捉え方が違いますよね。ルーツも多岐にわたっていますし。
「渋谷系の音楽を説明するのは難しいですよね。音楽のジャンルというよりは、シーンだったんじゃないかな。だから、カバー・アルバムには洋楽も邦楽も両方混ざっています。
最終的な目標は、古い曲だけじゃなくて新しい曲でも「野宮真貴が歌う」と渋谷系になること。
今の若いアーティストにも渋谷系を親伝手に聴いて育ったという方たちがたくさん出ているから、そういう意味でも世代を超えてつながっていけるんじゃないかと思ってます」
世界で一番格好いいことをやってる そういう気持ちはありました
――野宮さんのヴォーカリストとしての味や色は、ピチカート時代に確立されたんでしょうか。
「デビューはピチカートに入る約10年前なんですけど、その頃はテクノ歌謡というジャンルを歌っていましたし、割と無機質な歌唱法で、歌い上げ系ではないスタイルはすでに確立されていたと思います。
ピチカートに入ってからは、色々なタイプの楽曲を歌いましたね。歌のディレクションが入る時もありましたけど、基本的には自由に歌っていました。小西さんも私の歌を認めてくれていたので」
――当時、小西さんの思想を体現するポップ・アイコンとして見られることに対してはどう思っていました?
「純粋に楽しかったです。役割がはっきりしていたので。
映画でいえば小西さんが監督、私が女優みたいな関係性で、色々な楽曲で様々なヴィジュアルの女性を演じることができました。
それから、世界に出ることは全然考えていなかったけれど、自分が想像してた以上の活動に発展していったことも面白かったですね」
――ピチカート自体いろんな文化がないまぜになったものですが、日本から出てきたことが、当時海外の人たちから面白がられたんでしょうか?
「日本というより、“東京” というイメージで捉えられていたと思いますね。面白いのが、世界中で同時期に、同じようなものが好きな人たちがいたんです。小西さんみたいな人が別の国にも(笑)。
その人たちはだいたい同じような映画を観て、同じような服を着ていましたね。
ファンは、クラブキッズみたいな子もいれば、ゲイもいれば、音楽好きのマニアもいたりして、だいたいその3タイプがピチカート・ファンの主流でしたね」
――’90年代、全国的に支持されていたのは、いわゆるビーイング系や小室ファミリーが中心でしたが、ピチカートは日本の地方都市に広がっていくのではなく、東京の先がもう世界だったんですね。
「そうですね。日本ではメインストリームではなかったかもしれないけれど、世界のほうが近かったですね。
東京発信の新しいおしゃれな音楽、みたいな受け入れられ方だったんです。
だから、ファッション界の人々に支持されてコレクションで選曲されることもあったし、NYでバーニーズ ニューヨークに行けばピチカートがBGMでかかっていたり、海外のCMや映画にも使われていたりして」
――華やかでしたよね。ポップでゴージャスで、パッケージ・デザインも普通じゃないかっこよさだった。信藤三雄さん率いるコンテムポラリー・プロダクションとピチカートの時代という印象がありました。
「’90年代はそれができましたからね。凝ったパッケージを作ったり、いろいろやらせてもらいましたし。
渋谷系とは何か? と考えたときに、音楽のジャンルではなくて、実は信藤さんのアートワークだったんじゃないかという気もします」
――自分たちが作ったものが世界で受け入れられるという、時代の渦中にいるときはどんな気分でしたか?
「世界で一番格好いいことをやってる、という気持ちはありました。楽曲はもちろん、小西さんのイメージを信藤さんが一緒に具現化したアートワークも含めてね」
自分の好きなことも楽しんで 人生の主役でなければいけないと思う
――ピチカート・ファイヴの活動中にご結婚もされて出産もされていたんですよね。
「年齢も30代半ばで、一番忙しい時期でもあったけれど、自分の人生は自分で決めようと思って。
結婚も出産もファンの人たちに報告していなかったので、産休をする前に写真も撮りためて、レコーディングもすべて済ませて準備していました。
妊娠5カ月のときに全国ツアーをしていましたし、7カ月でCMのロケもしてましたよ(笑)。ギターや帽子でおなかを隠したりして。
産休3カ月くらいはお休みしましたけど、その間CDもリリースしていたので、誰も気づかなかったと思います」
――当時は全く気づきませんでした。
「ワールドツアーで1カ月半くらい帰れないこともあるんですけど、そこはやはり旦那さんと親に協力してもらって乗り切っていましたね。
住まいも親の近くに引っ越しして。家族の協力なしではできなかったと思いますね。子どもも1カ月半くらい会わないと、けっこう成長しているもので、再会はいつも驚きでした(笑)」
――野宮さん的子育て法ってありますか?
「子どもはかけがえないのないものではあるけれど、私にとって仕事も大切なものなので、両立させようと思いました。
女性には、妻だったり母だったり、いろんな役割があるわけですけど、脇役だけで終わるのではなく、自分の好きなことも楽しんで、自分の人生の主役でなければいけないと思うんです。
すべてを完璧にこなそうと頑張りすぎると疲れてしまうので、できないことはちゃんと声をあげて協力してもらいましたし。
子どもに寂しい思いをさせた部分もあると思うんですけど、それは私の子どもとして生まれてきたからには、母以外の歌手という役割があることもいつか理解してくれるだろうと、楽観的に考えていました」
――仕事をしながらどうやって子育てに関わっていったんですか?
「時間があるときはいろんなところに二人で出かけましたし、忙しいときもご迷惑がかからない範囲で仕事場や地方にも連れて行っていました。
いられる時間はできる限り一緒に過ごす。たとえば、コンサートの楽屋で息子が宿題をしていると、スタッフが勉強を教えてくれたり、遊んでくれたり、そんなふうにして仲良くなって、みんなで面倒みてくれて、息子も寂しい思いをしないですむので助かりました」
――野宮さん自身が “男だから” とか “女だから” とか性的役割分担の意識をあまり持っていないように感じるんですが、どう思います
「そうですね。私も仕事を持っていますし、旦那さんにも仕事があるし、お互い平等ですよね。
だから、子どもの面倒も、お迎えも、できる人がやればいいと思うので。忙しいときは、ステージ衣裳のまま保育園にお迎えに行ったりということも(笑)。
お弁当作りも6年間、きちんとやりましたよ。仕事で遅くなっても、時には朝まで遊んで、そのまま寝ないでお弁当を作って送り出して(笑)」
――執筆活動もされてますが、歌うこととは違った表現としてどう捉えていますか?
「ピチカート時代は年齢も非公開でしたし、あまりプライベートを見せることはなかったんですね。
でも、40代くらいから少しずつ自分のことをエッセイにしてライフスタイルを出していったんです。
シンガーソングライターだったら心情を歌や歌詞にするけれど、私の場合は文章を書くことが歌や作品をつくるというのに近いかもしれないですね」
――ご著書『赤い口紅があればいい』では、失敗談や苦労話についても恥ずかしがることなく、おおっぴらに語られているのが潔くて素敵だと思いました。
「それはこの年齢になったからできたのかもしれないですね。
『赤い口紅があればいい』は、約10年ぶりに書き下ろしたものなんですが、ちょうど45歳から55歳という女性の更年期にあたる10年間なんです。
身体や心が変化していくなかで、加齢とどう折り合いをつけていくかということを、自分の体験から語っています。
生まれつきの美人ではなかった自分が歌手としてステージの上に立つときに、少しでも美人に見えるようにとやってきた様々なテクニックがたくさんたまったので、そろそろみなさんにお伝えしてもいいかなと思って書きました。」
――40代が一番しんどかったとよくおっしゃってますけど、年齢を重ねることに対する焦りがあったからなんでしょうか?
「振り返ってみると、焦りもありましたし、迷っていた時期でもあった思います。
ピチカートを解散してソロになったという仕事の変化もありましたし、その後に更年期にさしかかり、心と身体の変化も重なったので。
40代になると若さにしがみつくか、あきらめてしまうかのどちらかになってしまう女性が多いのですが、私も徐々に失っていく若さを補うために、当時は色々と努力していました。
たとえば髪にツヤとハリがなくなれば足繁くトリートメントに通ったり。
でも、あるときアイロンでツヤツヤに伸ばしたロングヘアと、年相応の自分の顔のギャップに驚いて、若作りするほど老けて見えるという法則に気づいたんです(笑)」
――ふと鏡を見て、そう思ったんですか?
「鏡や、撮った写真を見てね。頑張り過ぎるとエレガントから遠ざかるということを、身をもって知ったんです。
それからは、手をかけないということではなくて、変化していく自分を客観的に見て、微調整を加えていくことにしました。
若さを補おうとすると手数が増えて大変になりますが、そこは大人の知恵を使った手抜き美容や、時にはお金にものを言わせてプロの手を借りて楽して乗り切ります」
――理想としていた50代に近づいていると思います?
「仕事の面でいえば、幼い頃、テレビの歌謡番組を観て歌手になってブラウン管の中に入りたいと思った夢は叶いましたね。
歌の仕事も順調ですし、本を書いたり、口紅をプロデュースしたり、仕事の幅もどんどん増えて楽しいです。
女性としては、50代後半になりますが、いつでも今の自分が一番いいと思えるように、美容やおしゃれも楽しんでいきたいと思います。
年齢を重ねることは決してネガティブなことではなくて、まだまだ変化していく楽しみがありますね」
――そうやって、前を向いて仕事を続けていけるのはなぜなんでしょうか。
「ひとつには、心から歌が好きということですね。デビュー時からキーも変わってないし、まだまだ歌えそうですし。
歌も、昔より上手くなってるかもしれない。まだ伸びしろがあるというのは、自分でも驚きです。
ある程度は成し遂げた50代に入って、これからは余裕を持って歌をより楽しめるようになると思います」
――野宮さんの言葉は、女性らしく軽やかでありながらも、媚びてなくて強くて、ロックさを感じますよね。
「ロック魂は、ずっと心の奥底にあるんです。ピチカート・ファイヴも実は、ロック魂が根底にあるバンドでした。それが、媚びない強さに繋がっていて、他の女性との違いなのかもしれません」
――野宮さんはどういうものに美しさを感じます?
「時間をかけたもの、かな。それこそワインに喩えられたりするけど、実際に私の大好きなシャンパン、ドン・ペリニヨンは8年間以上熟成させないと絶対にあの味が出せない。
熟成期間が長いほど価値があがります。そういう時間を経たもののすばらしさって、人間にも当てはまるんじゃないかなと思います。
そうやって手をかけたものには、美しさを感じますね」
――最後に、今一番楽しいこと、大事にしていることはなんですか?
「歌うことですね。まだ歌えるということが幸せ。
あとは、息子が生まれた時に夢見てたことがあるんですけど、それは彼が20歳になったらふたりで鮨屋に行ってお酒を飲むこと。
その夢も先日叶いました。大事にしていることは、愛のある人と仕事をすることですね」
PROFILE
Maki Nomiya
「ピチカート・ファイヴ」3代目ヴォーカリストとして、90年代に渋谷系ムーブメントを国内外で巻き起こし、音楽・ファッションアイコンとなる。2017年にデビュー36周年を迎え、現在は音楽活動のほか、ファッション、ヘルス&ビューティーのプロデュース、エッセイストなど多方面で活躍中。
「ピチカート・ファイヴ」3代目ヴォーカリストとして、90年代に渋谷系ムーブメントを国内外で巻き起こし、音楽・ファッションアイコンとなる。2017年にデビュー36周年を迎え、現在は音楽活動のほか、ファッション、ヘルス&ビューティーのプロデュース、エッセイストなど多方面で活躍中。