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【婦人の社会学】「ホントは嫌だけど仕方ない」で、30年変わらなかった私たちの世界 [mi-mollet]

2018年10月09日(火) 20時10分配信

Photo by Chen Feng on Unsplash

数年前の日本映画でこれでもか!と作られていたのは、少女マンガ原作のラブストーリー。平凡で目立たないタイプの女子高生に、学校で一番人気のイケメンがなぜか突然接近してきて、チンアップ(顎上げ)で俺様な上から目線で、壁際に追い詰められてドンされて、「俺のこと好きになってもいいぜ」とかなんか言われて、ドキがむねむね!みたいなやつですね。
この壁際に追いつめられてドン、いわゆる「壁ドン」が妙に流行っていた頃、私はそのドキドキに対して非常に懐疑的なひとりでした。確かに相手が自分の好きな人とか彼氏とか、互いの感情にコンセンサスがある場合の「プレイ」としてやるなら、それもまた一興なのでしょうが、例えばぜんぜん好きでもない相手に「壁ドン」されたからって、果たしていやだなんかドキドキ、みたいになるのかなあ。
実際、私も若い頃にわずかながら体験したことがありますが、「相手のことを全然好きじゃないバージョン」の時は、ぶっちゃけ恐怖しかありませんでした。ミニモニサイズの私に対しその時の相手は180cm越えのガタイのいい男、ほとんど覆いかぶさってくるような感じ。チビが逃げるにはもはや股抜けするしかありませんが、万が一相手の脚が短ければ万事休すです。
そうした恐怖に対した人間の心は、自己防衛反応として「なんか怖い、怖くてドキドキする……でもこのドキドキは、まさか、もしかして……恋?恋なんじゃないの?!」と思っちゃうんじゃなかろうか。つまりいわゆるひとつの吊り橋効果――ぐらっぐらの吊り橋を渡るというドキドキ恐怖体験をともにした男女が、そのドキドキを恋のドキドキと勘違いしてフォーリンラブ!とか、自分の身を守るために敵を愛しちゃうストックホルム症候群!とか、その手のアレの変形版なんじゃなかろうかと、思うわけですね。はい。
アメリカで未婚のキャリア女性に「いつか王子様が」といいう妄想を植え付けたのはディズニーの罪だという人がいますが、もしかしたら日本のある種の少女マンガも同じように、そうした「支配される恐怖」から「従う喜び」へのすり替えを「それって恋だお♥」みたいに補強する装置として、機能しちゃってるんじゃないかなあ。

ちょっと触られたぐらいで騒ぐなんて、大げさだよね

まあそんな風に思っていたので、「『りぼん』新編集長が異色の新連載『さよならミニスカート』にかける想い」という記事には、ちょっと驚かされました。この作品のヒロイン・仁那は、髪を短く切り、スカートを履くのをやめた――つまり、いわゆる「女の子らしさ」を猛烈に拒絶している女子高生。その正体は、ファンに襲われたトラウマに苦しむ元トップアイドルです。もちろん物語には少女マンガ的な恋愛も盛り込まれてはいますが、「こーゆー少女マンガが出てきたとは」と驚かされるのは、その周辺に散りばめらた、大人の私たちが見てもリアルな世界です。
例えば「女子らしさ」を排除した仁那に「あんな女を襲う男なんている?」なんて囁く周囲の女子生徒たち。痴漢を嫌がる女の子たちに「男に媚びるためにミニスカートはいてるんだから、触られて当たり前」という男子生徒たち。ここに痴漢に遭った学年一番人気のかわい子ちゃん未玖が登場し、笑顔で「でもたかが太もも触られただけで、大げさだよー」。男たちは「さすが未玖ちゃん、優しい!」と大喝采で彼女を持ち上げまくり、その空気に飲み込まれた他の女の子たちが「……そうだよね、ちょっと触られたくらいで騒ぎすぎだよね」と怒りの矛を収めてしまいます。

こういうやり取りは私が高校生だった頃から全然普通にあったし、さらに言えば社会に出てもそのまんま、同じようなことを言う人、状況は絶えません。つまり昔から変わらない「ありがち」のオンパレードなわけですが、いやいやちょっとまて。これが2018年のリアルな高校の姿なら、私が高校生だった約30年前から、女性の置かれている環境って、まったくもって、何ひとつ、これっぽちも変わっていないということではないのかしら……。

私はふと、小さい頃からうちの母が家で餃子を作っていたことを思い出します。私が今、自分でも餃子を作るのは母が作っていたからで、そういう習慣がなかった友人は餃子を作るなんて思いもしないようです。冒険心と好奇心と自立心がめちゃめちゃ強い子供であればいざ知らず、大抵の子供は、親のやることを見ながら自分の行動や考えのベースを作っていくものです。
もし今の子供たちが「たかが太もも触られただけで大げさ」という30年前と同じ世界を、ほんとは嫌だけど仕方ないと思いながら生きているのなら、それは私たち親世代が「……そうだよね、ちょっと触られたぐらいで、騒ぎ過ぎだよね」と諦めて、見せかけの平穏を作ってきたせいかもしれません。
作るのが母親であれ父親であれ、「おうち餃子」を知っている子供は、必ずしも餃子を作らないまでも、「おうち餃子」が作れることは知っている。同じように「決して騒ぎ過ぎじゃない」と親が考え言い続けることは、「騒ぎ過ぎなのかな…」と不安になる子供をきっと支えるはず。小さいけれど未来を変えることって、そういうことから始まるんじゃないかなー。

著者PROFILE

渥美 志保 Shiho Atsumi


TVドラマ脚本家を経てライターへ。女性誌、男性誌、週刊誌、カルチャー誌など一般誌、企業広報誌などで、映画を中心にカルチャー全般のインタビュー、ライティングを手がける。yahoo! オーサー、コスモポリタン日本版、withオンラインなど、ネット媒体の連載多数。食べること読むこと観ること、歴史と社会学、いろんなところで頑張る女性たちとイケメンの筋肉が好き。

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