• > 【教育コラム】平田オリザ「22世紀を見る君たちへ~国を捨てる学力」 [mi-mollet]

【教育コラム】平田オリザ「22世紀を見る君たちへ~国を捨てる学力」 [mi-mollet]

2018年09月29日(土) 20時10分配信

「演劇」を活用し、さまざまなコミュニケーションで教育活動を行ってきた劇作家で演出家の平田オリザさん。大学入試改革にも携わっている平田さんは、演劇を学ぶ初の国公立大として、2021年度に開校する予定の国際観光芸術専門職大学(仮称)の学長就任も決まっています。連載「22世紀を見る君たちへ」では、これまで平田さんが「教育」について考え、まとめたものをこれから約一年にわたってお届けします。

講談社mi-mollet

現在の日本人の平均寿命は83歳。
ということは今年(2018年)生まれる子どもたちは、その天寿を全うすれば、みな、22世紀を見ることになる。
彼ら、彼女らは、まったく想像もできない未来を見る。まったく想像もできない世界を生きる。
私は、これから一年あまり、「教育」について書きつづっていく。
しかし、あらかじめ、まず最初に以下のことを記しておかなければならない。

教育のことは分からない。
なぜなら、未来は分からないから。

よく言われるように、私たち人類は未成熟な形で母の胎内から生まれ、脳の柔らかい期間を長くとって様々な学習を行うように進化を遂げた。それが、ヒトの成長の特徴である。そのためヒトの子育ては、他の動物よりも難しく、社会全体で子どもを育てていく必要性が生まれた。ここに広義の「教育」の起源がある。「教育」とは、人類を、他の生物と区別する大きな要素の一つである。

しかし一方、古代ギリシアなどの例外を除いては、「教育」が、社会全般に意識されるようになったのは、人類の長い歴史を一年に例えるなら、ほんの数日前のことに過ぎない。

フランスの歴史学者フィリップ・アリエスの名著『〈子供〉の誕生』によれば、ヨーロッパでは中世まで「子供」という概念はなかった。乳幼児死亡率が極端に高かった時代、そこを生き延びると人々は、7、8歳で徒弟修業に出され大人と同等に扱われた。アリエスはそれを「小さな大人」と呼んでいる。
この説をすべて鵜吞みにするかどうかは別として、おそらく「教育」「学校」あるいはそれと区別される「家族」という概念さえ、近代以前には、ごく限られた階級のみが意識できたものだったことは想像に難くない。もちろん、洋の東西によっても多少事情は異なるのだろうが、庶民の生活レベルでは、この点、大きな違いはなかったのではあるまいか。

宗教の違いなどを含め、国家や民族のそれぞれの歴史や事情はあるにせよ、そして、その細かな差異はこの連載の中で見ていくにしても、おおよそのところでは、どの国においても、産業社会が生まれ、あるいは国民国家の生成の過程で、「教育」の必要性が起こり「学校」が生まれた。

そう考えれば、狭義の「教育」「学校」の歴史は、たかだか数百年に過ぎない。そうであるなら、私たちは教育について考えるとき、もっと謙虚になるべきではないだろうか。

未来のことは分からない。

教育とは、未来を予想して、「子どもたちに生きるための能力を授ける」という行為である。たとえば、子どもが漁師になることが確実に分かっていれば、その子には、船の動かし方、釣り具や網の整備の仕方、天候の予測のための知識、万が一のときの泳ぎ方といったことを教えておけばよかった。しかし、いま私たちが直面しているのは、おおよそ以下のような問題である。

・その子が、どんな職業に就くかがまったく予想できない。
・親が子どもを漁師にしたいと考えても、そもそも22世紀に漁師という仕事があるかどうか分からない。
・漁師という仕事が生き残ったとしても、そこで必要とされる能力について予想がつかない。それは、漁業ロボットを操作する能力かもしれない。漁から販売までを一元化し、六次産業化していくコーディネート力かもしれない。あるいは、養殖の技術や遺伝子組み換えについての研究こそが、漁師の本分となるかもしれない。

未来が予測不可能なのに、いったい私たちは、子どもたちに何を教えればいいのだろう。

講談社mi-mollet

現状、もっとも分かりやすい例(厳密に言えば、もっとも未来が予測しにくいので、逆に例としてはもっとも分かりやすい事柄)は、英語教育だろう。

40年近く前の私の予備校生時代、一人の頑迷な理系の教師がいた。彼は、当時、最先端の情報工学が専門であった。この教師の口癖は、「もうあと数年もすれば、自動翻訳が飛躍的に進む。だから、君たちがいま必死に学んでいる英語はすべて無駄になる」というものだった。

この文章を読んでいるすべての読者がご承知のように、彼の予言は見事に外れた。しかし、この教師のことを、いったい誰が笑えるだろうか?

いまは逆に、小学校からの英語教育が実施に移され、2020年度には、これまで「外国語活動」とされてきたものが教科として扱われるようになる。しかし、この改革を批判、疑問視する声は多い。
私の親しい英語教師の中には、英語教育は現行の中学校どころか高校からでもかまわないと公言する方たちもいる。それよりは母語の言語運用能力をしっかりと高めてもらった方がいいと考える教員は多い。自らの語学教育の力量に自信のある方たちほど、英語の早期教育には(少なくとも義務教育化には)反対する傾向がある。

ネイティブスピーカーと同じ発音を目指すなら、百歩譲って早期教育は大切なのかもしれない。しかし、そもそも日本人の大多数が、ネイティブと同じ発音をする必要があるのかどうか。

さらに、教えるべきは英語なのかという議論も当然あるだろう。21世紀の中盤以降を生きる日本人に必要なのは中国語かもしれないし、あるいはドイツ語やロシア語かもしれない。

また、近年の自動翻訳技術の進歩には目を見張るものがある。外国人の多い観光地では、土産物屋や旅館などの接客にはGoogle翻訳は欠かせないツールとなっている。おそらく、この技術は加速度的に進歩していくだろう。細かいニュアンスを伝えることができるようになるのは、まだまだ先のことだろうが、接客に使われるパターン化された会話ならば、タイムラグなしで機械翻訳ができる日もそう遠くはない。先の予備校教師の主張は、50年ほどの時を経て実現するかもしれないのだ。

もしもそうなったときに本当に大事なのは、その自動翻訳の機械を使いこなしつつ、微妙なニュアンスをノンバーバル(表情や身振りなどの非言語領域)で伝えていくコミュニケーション能力かもしれない。

いやいや、もちろん、このまま英語が世界を席巻し、このような批判があったことすら笑い話のようになるかもしれない。

しかし、そもそもが初等教育はトレードオフである。子どもの学びの時間は限られている。何かを入れるなら、何かを捨てなければならない。英語教育もいい、プログラミングの教育も必要かもしれない。私がお手伝いをしているコミュニケーション教育の重要性も、否定する人は少ない。だとしたら、他の何かを犠牲にしなくてはならない。たとえば書道は科目として必要だろうか。漢字は書き順まで覚える必要があるのか。実際、教育学の専門家のあいだにも、様々な議論がある。

未来が分からないのに、私たちは、その優先順位をどのように決めればいいのだろうか。

著者PROFILE

平田 オリザOriza Hirata


1962年、東京生まれ。国際基督教大学在学中に劇団「青年団」結成。戯曲と演出を担当。現在、東京藝術大学COI研究推進機構 特任教授、大阪大学コミュニケーションデザイン・センター客員教授。2002年度から採用された国語教科書に掲載されている平田のワークショップ方法論により、多くの子どもたちが、教室で演劇を創る体験をしている。戯曲の代表作に『東京ノート』(岸田國士戯曲賞受賞)、『その河をこえて、五月』(朝日舞台芸術賞グランプリ受賞)、著書に『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か』『下り坂をそろそろと下る』(以上、講談社現代新書)など多数。

【関連記事】

NEWS&TOPICS一覧に戻る

ミモレ
FRaU DWbDG
  • FRaU DWbDG
  • 成熟に向かう大人の女性へ
  • ワーママ
  • Aiプレミアムクラブ会員募集中!

このページのTOPへ戻る