• > 日本人が「英語を習っても話せない」単純な理由 [mi-mollet]

日本人が「英語を習っても話せない」単純な理由 [mi-mollet]

2018年09月15日(土) 20時10分配信

「これから」の社会がどうなっていくのか、100年時代を生き抜く私たちは、どう向き合っていくのか。思考の羅針盤ともなる「教養」を、講談社のウェブメディア 現代ビジネスの記事から毎回ピックアップする連載。
今回は、さまざまなメディアでご活躍中のコラムニスト 堀井憲一朗さんの「日本人の英語」に関する記事をお届けします。
2020年、この国の教育が劇的に変わる。その理念は「自分で考え、表現する人間を育てる」ことにあるそうだ。

「画一的な詰め込み教育」からの離脱が子どもたちに何をもたらすかを考えた前回に続き、今回は、教育改革のもうひとつの大きな柱である「国際化(英語教育)」問題を考えてみたい。

なぜ日本人はいつまでたっても英語が話せるようにならないのか? 答えはこの国の歴史を振り返ればわかるはずだ。

英語を習っても話せない問題

「自分で考え、表現する人間を育てる」という目標の他に、もうひとつ今回の教育改革がめざしているのは、国際化である。

東京大学や京都大学が、世界の大学ランキングの位置が落ちてきて、あせっている人たちがいるらしい。国の金をつぎこんだ帝国大学、つまり東大がアジアで1位でなくなったことにショックを受けている。気持ちはわからないでもない。

国際基準に合わせて、日本レベルを上げたがっている。そうしないと日本が世界水準から遅れる。明治以来の〝世界世間さまの目〟を気にする態度からは、とても大きな問題である。

それはわかるが、しかしそれが英語教育の問題に転嫁されている。

英語は読み書きだけではなく、話せるようにしたい。

毎度の提唱です。

英語を習ったのに、まったく話せないとはどういうわけなの、という百年前から言われているポイントがまた問題になっている。

また、その話です。勘違いの効率主義がみんな好きだよな、とおもってしまう。

そもそもの問題は「読み書き」と「喋り」の隔たりにある。

読み書きは頭脳の問題である。一人で部屋に籠もって、勉強すれば何とかなる。

会話は身体である。スポーツと同じで、身体を使わないと覚えられない。周辺環境がとても大きい。

英語だという共通点だけで「読み書き」と「自在な会話」というまったく別の働きを必要とする分野を同じ教科にするのは、おそろしく無理がある。「音楽」と「世界史」をどうせ海外のものだからと同じ教科にしているのと同じである。

英会話は本来、体育・音楽・美術と同じエリアに分類されなければいけない。

その「身体」と「頭脳」の距離をきちんと測ってないところに、英語教育改革の困難が露呈する。
本当は誰も本気じゃない?

講談社mi-mollet

本当は誰も本気じゃない?

そもそもずいぶん昔から「英語を読めても話せないのは問題ではないか」と指摘されながらも、その状態が変わってないということは、本気で変えるつもりがないということである。それ以外に説明しようがない。

「英語を話せない日本人を、ぶっちゃけ、どうおもっていますか」

それに対する回答がすべてである。

タテマエとして、つまり他人事としては「話せたほうがいいとおもう」となる。でも、いま必要としていない大人に、近いうちに必ず話せるようになりなさい、と命じたところで、いや私はいいよ、と答える。

それが「日本の英語」の問題のすべてです。

日本で暮らしてるぶんには、日本語があるから大丈夫。誰も日本語を捨ててまで、英語を生活の中心に置きたいとは考えていない。

ただ、必要な人は英語を覚えておいたほうがいい、とはおもっている。

いま、自分が必要に駆られてないのなら、覚えようとはしない。そのどっちの比重を大きく取るのかというだけの話である。

ありえないことではあるが、もし本気で、すべての子供に英語を話せるようにしたいのなら、社会を変えるしかない。

「議員になるには、英語で意思疎通ができることが条件で、それを満たしてない場合、立候補ができない」「教員は全員、英語がきちんと話せないとその資格を剥奪する」「会社経営者はかならず本人が英語を自在に操らないと、その地位を保証しない」というような決まりがあれば、おそらく話は違ってくる。

でももうそれは日本ではない。

日本をやめてまで、英語を話す人々を多くしたいわけではない。

つまり本気ではない。

日本では英語を話せなくてもトップに立てる。大金持ちになれる。有名にもなれる。

それで充分である。

仕事で必要としている人以外、日本人は英語を話せないことに、日常的にコンプレックスを感じていない。

日本語だけで通じる同胞の数も多い。

21世紀のいま、日本語が通じる同胞がおよそ1億2千万人。40年で3千万人減っても9千万人である。市場として大きい。日本だけで鎖じたとしても、国内で成功すれば分限者になれる。

国際派だけが抱いている危機感

時代は変わっているから、そんな悠長なことを言ってる場合ではない、というのが英語トーク教育推進派の強いおもいであろう。たしかに時代は変わってきている。他国との心理的距離は近くなっている。

しかし、その「対外が迫ってきているというあせり」と「それに対応するために英語を習得する必要性」はべつだん連動していない。〝国際派〟の人たちだけの危機感であり、多くの日本人と連動しておらず、わが国でお馴染みの構図になっている。

そもそも英語で話すということは、身体の能力なので、ピアノを弾けるようになるとか、外野フライを捕れるようになるなどと同じで、繰り返し練習しないといけない。とても好きか、すごく必要性が感じていないと、まず習得できるものではない。

その必要性を痛感させる社会を形成しないで、学生生徒だけに習得しろと言ったって、本気で取り組むはずがない。

大人が、つまり社会が「おれたちはいいけど、きみたち子供は習得しなさい」と言うかぎりは、それはそのまま「僕はいいから、本当に必要なやつだけが習得すればいい」と考えを呼び起こすに決まっている。小手先の対応ですませるだろう。

時代や海外情勢が変わろうと、この国内に根深く巣くう土俗的感情が変わらないかぎりは、いつも同じことである。そして、その感情を変えるつもりはない。そこを変えると日本という国がなくなるのではないかという、根源的恐怖を抱いているからである。

国際派の政策は必ず止まる

「世界で通用する国際人」を国としてどれぐらいの割合で欲しているのか、という問題だ。

このたびの教育改革によればおそらく英語を日常的に話せる人間を日本人の4割程度にしたい、というところであろう(私個人の推測数値)。

ただ実際のところ、ふつうの日本人が求めている割合は2割程度だとおもう。10人中2人ほど国際派がいればじゅうぶん、とおもっている。それはただの土俗的感情でしかないのだが、感情であるぶんとても強固である。

学生生徒すべてに英語を話す能力をつけさせようと目論むのなら、その土俗的感情と事前に折り合いをつけないといけない。

「この程度では、日本の根源は揺るがないので、海外力を入れていかなければいけない」と、荒ぶりやすい感情を事前になだめておかないと進めない。いつだって国内派の譲歩をある程度とってからでないと、国際派の仕事はできない社会なのだ。

しかしその合意は取っていない。これからもおそらく取らないだろう。そのまま国際派の政策が始まる。「若者はみな英語を話せるようになってほしい」という願望の押しつけが開始される。

だから、ある程度すすんだところで、必ず止まる。

おそらく〝英語を流暢に話すが、日本語や漢語知識が薄い日本人たち〟に対する猛烈なバッシングの形を取って世を覆うはずである。流暢英語人、つまりきちんとした国際派が人口の3割を越えたら、猛然とその動きが起こる。

それが日本だから。

だったら「言葉だけは流暢だけれど、心根の日本土俗性を強く意識できる人たち」を作ればいいのだけれど、それは和魂洋才という四字熟語が存在するくらいに古くからある考えで、まず、うまくいかない。精神と身体の分裂を高次元でまとめるという荒技が必要なわけで、ふつうの健康な人間にはとてもむずかしい。

歴史は繰り返す、何度でも

今回の英語教育問題は、わが朝の歴史に繰り返し出てくる「国際派」と「国内派」の対立の一形式にすぎない。

それはふるく物部氏と蘇我氏の対立から、源氏と平氏、攘夷派と開国派、日本陸軍と日本海軍にいたるまで、常に同じ立場でそれぞれの主張が繰り返されているお馴染みの風景である。

このたびの教育改革は〝国際派〟が主導することになった。たぶん、順番である。

国際派の心情としては、世界との交流はどんどん必要となり英語は必須なのだから、今後われわれの考えが衰退することはない、と信じている。グローバル化は進むことこそあれ、戻らないと信じているからだ。

しかし残念ながら似たようなことは、蘇我入鹿も平重盛も小栗忠順も言っていた。彼ら頭脳派は、その見識の高さを自負し「国内のことしか考えてないこの愚か者たちめ」とおもっているのだが、そこに陥穽(かんせい)がある。

土着的な、ほとんど怨念とも言っていいような日本古来の強いおもいを無視すると、暴力的な空気によって必ず潰される。歴史を見る限り、常にその繰り返しである。頭脳がいくら自分は正しいと主張しても、納得しない身体が従わなければ、どうしようもない。

だから国際派と国内派は常に対立しつつも、最終決着をつけない。

そのほうがいい。

もし決着をつけると、アジアの王たろうとして暴走するか(大東亜戦争を起こしました)、自閉するか(鎖国です)、そういう極端な国論しか抱けない。片側が論理で、片側が感情だからである。

分裂している身体と精神を合一させようと無理をすると、極端な行動に走る。いつもどっちかに偏りつつも、完全な決着をつけない。それが国を保つ工夫である。

国際派の教育改革は、どこかよきところで止まるから、それまでは見ていればいい、というのが古老的な知恵である。

国際派と土俗派がわが国の基本的な二つの党派であり、話し合いをしたことはなく、またするつもりもない。二大政党による政治など、じつは誰も望んでいない、ということでもある。


<著書紹介>

講談社mi-mollet

<著書紹介>

『「落語の国からのぞいてみれば (講談社現代新書)』
堀井 憲一郎 著

恋愛こそすべてという圧力、名前に対する過剰な思い入れ、死んだらおしまいと言えないムード…… どこか息苦しくないか? 落語のなかに生きる人々の姿から、近代人のおかしさを撃つ!
堀井 憲一郎(ほりい けんいちろう)
1958年生まれ。京都市出身。コラムニスト。著書に『若者殺しの時代』『落語論』『落語の国からのぞいてみれば』『江戸の気分』『いつだって大変な時代』(以上、講談社現代新書)、『かつて誰も調べなかった100の謎』(文藝春秋)、『東京ディズニーリゾート便利帖』(新潮社)、『ねじれの国、日本』 (新潮新書)、『いますぐ書け、の文章法』(ちくま新書)などがある。

著者PROFILE

現代ビジネス編集部gendaibusiness


「現代ビジネス」は、第一線で活躍するビジネスパーソン、マネジメント層に向けて、プロフェッショナルの分析に基づいた記事を届けるウェブメディア。政治、経済からライフスタイルまで、ネットの特性を最大限にいかした新しい時代のジャーナリズムの可能性を追求し続けている。

【関連記事】

NEWS&TOPICS一覧に戻る

ミモレ
FRaU DWbDG
  • FRaU DWbDG
  • 成熟に向かう大人の女性へ
  • ワーママ
  • Aiプレミアムクラブ会員募集中!

このページのTOPへ戻る