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あなたは、”寂しがり”か、それとも”寂しい女”か?【齋藤薫】 [VOCE]

2018年03月25日(日) 12時33分配信

いわゆる"おひとり様"は、"寂しい女"じゃない

マリリン・モンローは、36歳の若さで亡くなっている。未だに、死因は謎のまま。一応、睡眠薬の過剰摂取として処理されているものの、自殺説や他殺説が今も消えない。そのぐらい、何があってもおかしくない"生き様"であり"死に様"であったということなのだろう。そして、どちらにしても寂しい人だった。あれだけの栄光を我が物にした人なのに、また女として世界一チヤホヤされた人なのに、なぜそんな寂しい死を遂げたのか?

同じ大女優でも、既に峠を過ぎて人気も低落、映画『サンセット大通り』の怖い女優みたいに世間から忘れられてしまった孤独とは違う、また、別格すぎてみんなが近寄らずに気がつけば孤独……というパターンともどうも違うよう。マリリン・モンローの寂しさは、おそらく「誰も自分を理解してくれない」という、とても内的なものだった気がするのだ。それは、現代の日本のごくごく普通の一般女性にも共通する感情。今まさにそういう孤独感に苛まれている人は、少なくないはずなのだ。

つまり、一人ぼっちだから寂しいのではない。むしろ自分から一人になっていく。一緒にいて心が寂しくなる人とはいたくなくて、結果一人を選んでいるという人が、今の時代少なくないのだ。だからこういう人は、“寂しい女”とは言わない。従って"おひとり様"は、客観的にも今、"寂しい女"には見えないのだ。

逆に今こんな説がある。男女入り乱れ、一見みんなでワイワイ楽しそうな集まりは、人を孤独にしたり、人を孤独に見せたりする要素が多々あると。また、いわゆる"フェス"やコンサートで、最初から総立ち、特に興奮も感動もしていないのに異様に盛り上がっている人々は、不思議に寂しく見えると言った人もいる。

さらには、スマホの新機種発売みたいな時に、徹夜で並ぶ人々もなぜか寂しく見えると。それは本人の気持ち、傍がとやかく言うことはない。でも今の時代、傍目に一体誰が寂しく見えるのか?はわりに重要なテーマだからこそ、むしろそういう賑やかなところに必死で身を置いて"はしゃぐ人たち"が増えるのではないかという冷めた見方がされているのだ。

人から"寂しい女"と見られたくない……これは誰もが普通に持っている感情。当たり前の気持ちである。でもそこで、自分は"寂しい女"ではないと自分に言い聞かせるために、賑やかなところに行ってはしゃぐという行為、それ自体が寂しく見えてしまう時代なのだろう。

ケイト・ブランシェットは、以前こんな主張をした。SNSには全く興味がない。自分は孤独ではないからと……。SNSはいいとしても自分が孤独であることを自分に悟らせないため、友達がたくさんいると自分に錯覚させるためにやっている多くのことが、やがて自分をもっと孤独にしてしまうのではと。
孤独であっても構わない。でも孤独に強い女になること。

美の格言

孤独であっても構わない。でも孤独に強い女になること。

つまり、別に孤独だっていいのだ。寂しく見えたっていいのだ。もっと寂しいのは、自分を"寂しい女"に見せないために必死になること。例えばだけれど、クリスマスや自分の誕生日に家にひとりでいて自分を寂しくしないため、無理矢理誰かと約束を取り付けて過ごしても、むしろ寂しさは増すのじゃないか。もちろんそれで心が埋まれば問題はないけれど、それを繰り返していても深い孤独が消えないことのほうが問題。現代人は孤独というものに対して、もっともっと本気で取り組むべきだと思うのだ。

今や、おひとり様は少しも寂しそうに見えないと言った。確かに欧米は未だ"二人"が基本の単位で、それなりの場所に行くとカップルばかり。女一人が浮くことは否めない。でも日本は事情が違う。アニメの国、オタクの国、職人芸の国、無口な国(関西除く)、あまり議論をしない国、自己主張をしない国……つまり日本の単位はやっぱり一人。パーティー等をやってみても、本当にはなじめない。どこまでいっても一人が合う国なのだ。

そういう国で一人でいることは、むしろ自然なわけだが、その一方で人間は、人間の宿命として寂しがり。大切なのは"孤独に強くなること"なのだと思う。孤独に強くなることは、人生のあらゆる困難に立ち向かえる能力であり、自らの力で幸せを生み出せる才能。つまり、"人間力"の基盤となるものだからである。

孤独に強い人に共通する3要素……それはまず、自分に自信があること。根拠なき自信じゃない、人に見せない自然な自信を備えていること。2つ目に、自意識過剰でなく、自己顕示欲も強くないこと、また世間体を気にしないこと。3つ目に、人に好かれていること。自らも、人を憎まないこと。言い換えるなら、この3つをクリアしないと、どう繕っても"寂しい女"に見えてしまうということ。

ただ、"寂しがり屋"と"寂しい女"は違う。「人の間」と書く人間は生物学的に寂しがり。逆に寂しがらない女は、可愛くないと見られたり、「大丈夫、君は1人で生きていける女だから」と別れを告げられてしまったりするのかも。だから"孤独に強い心"を持ちながらも、どこかでちゃんと"少しだけ寂しがり屋"でいることもまた大切なのだ。

とはいえ、寂しがりが高じると、人にとってちょっと面倒な、厄介な女になりがち。身勝手に相手を求め、時に不安定になったり、わざと相手を困らせたり。寂しがりは自分をもっと寂しくするから一定以上を越えては絶対いけないのだ。寂しがりが一定量を越えたマリリン・モンローは、世間が彼女をチヤホヤするほどに、私をわかってくれないと、心の孤独にあがいた挙げ句、バランスを崩し、死にたくなったのかもしれない。自らを寂しく見せたくない"寂しい女"は死にたくはならないが、過剰な寂しがりはやっぱり危険をともなうから克服しなければ。生きて行くために。

そういう意味で、寂しがりを克服する方法はといえば、当然のことながら「家に閉じこもっていないで、いろんなコミュニティーに参加しましょう」、でもそれができれば苦労はしないわけでむしろ「コミュニケーション能力を高め、自分から人に話しかけること」、「周囲に気遣いのできる人になること」、そして「趣味を持ち、知識を深めること」。実はこういうことが孤独感をどんどん消していく決めてになってくるのだ。

もうわかったはず。人間の単位はどこまでいっても結局一人。一人でも心が満たされて一人でも幸せを感じられる、そして一人でも生きていけることが、上質な女性になるための絶対条件なのだと思う。それでこそ、放っておいてもあなたの周りに人が近づいてくる。

社会は女性の生き方に対し、とても身勝手な判断をする。昭和の頃、女は早々と結婚していないと白い目で見られたし、女の仕事は結婚前の腰掛けと言われた。そして10年ほど前までは、子供を産んでも仕事を続けたい人を「欲張り」とばかりにちょっと冷遇したけれど、今やそれも普通になり同時に、一人で生きるのも女の選択として市民権を得てきた。だいたいが、結婚しない男も急増しているのだから、当然だ。そういう意味でも、"一人の単位"は日本の社会が認めたもの。孤独に強い女が、ある意味でますます輝く時代が来たと思う。"寂しく見せたくない女"ではなく、"寂しくない女"。一人で生きていようがいまいが、"孤独にも強い女"が、今正しい、そして美しい。
齋藤 薫
美界のご意見番。VOCE連載のほか、美容や女性をテーマに多くの女性誌で執筆中。精神性の深さが多くの女性から支持をえている。

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