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【58歳の決断】多くの著名人を虜にした、あの名店ができるまで [おとなスタイル]

2016年11月09日(水) 09時00分配信

踊り子時代の山本さんと琉球料理

かつて栄えた沖縄の花街、辻に伝わる琉球料理の名店「琉球料理乃山本彩香」。一流の料理人からもリスペクトされる、料理家・山本彩香さんは、舞踏家と料理家の二足の草鞋を続ける一方、母から受け継いだ本物の琉球料理が消えゆく危機感を感じていました。山本さんの選んだ決断とは――。
踊りと料理、琉球文化の二足の草鞋

沖縄のアグー豚。「啼き声以外はすべていただく」大切な食料

踊りと料理、琉球文化の二足の草鞋

辻で母と暮らした平屋の煉瓦家には、奥に豚小屋もありました。と、こんな話をしたら懇意にしている文筆家の船越義彰先生に「アヤちゃん、そんなことまで覚えているのか!」
と驚かれた。

 
戦火にみまわれた沖縄には、琉球王朝料理の流れをくむ辻のおもてなし料理に関することは、残っていないそうです。だから私が唯一の生き証人みたいなもので。
豚小屋があったんですよ、辻には。「啼き声以外はすべていただく」というぐらい、沖縄の人間にとって豚は大切な食料ですから、辻の中で飼育していたんですね。
子どもの頃、母が台所で豚をゆでていると、なんともいえない、いい匂いが家じゅうに広がって。私は近づいていって、母の背中を後ろから指でつつく。すると母は固ゆでした豚肉の切れ端を手のひらに載せてくれた。ほんの少しだけ塩をまぶして食べるのが最高のおやつでした。私の味の原点です。

 
もうひとつ、崎間カマトが身につけさせてくれたものがあります。踊りです。
5歳で踊りを始めて、6歳で初舞台を踏みました。初舞台のときは母も三線(さんしん)を弾いて謡方(じかた)を務めてくれた。「本物の先生でないと、先生とは呼ばない」なんて、むちゃくちゃ生意気を言う子どもでしたが、私は確かに踊りの筋はよかったんだと思います。

 
そんな辻での暮らしも、戦争によって終わりが来ました。那覇の激しい戦禍を逃れるため、母は6歳の私を連れて辻を出て、北部の今帰仁(なきじん)へ疎開した。
終戦後は、今度は南部の糸満(いとまん)の玉城さんという、奥さんが病死した農家へ母が嫁ぐことになりました。
玉城の家には私を含めて8人の子どもがいて、生活は苦しかったです。私は中学にもろくに通えず、畑仕事を手伝ったり、母の作るおいしい豆腐を売り歩いたり、魚売りもしたし、アイスケーキも売った。
同級生たちが向こうから歩いてくると、路地に引っ込んで隠れてね。私は学校の成績、よかったんですよ。なのに学校へ行けない。勉強させてもらえない。自分より成績の悪かった子らがハイスクールへ行くでしょう。「なんでよ?」と悔しかった。だけど、これはどうしようもない。

 
辻の華やかな生活が性に合っていた崎間カマトさんに、田舎の暮らしは向いていなかったのでしょう。間もなく離婚して、母は玉城の家を出ました。私も中学を卒業すると、那覇で住み込みの女中などをしました。19歳で結婚して子どもを生みましたが、私にも結婚生活は向いていなかったみたいね。1年で離婚した。

 
そんなときに母が子宮筋腫を患って……。当時は米国の統治下で、今みたいに医療保険も無い時代。1000ドルで家が建つときに、500ドルという借金をして手術をさせたんですよ。今の23~24歳の娘に、それはできないよねぇ。
とにかく稼がないといけないでしょ。夜は必死に料亭で働き、昼は踊りの稽古に励む日々。そして26歳で琉球舞踊の新人賞をとったのがきっかけで、那覇の高級ホテルの芸能部の係長として採用されました。このお給料がものすごくよかったんですよ。それで借金が返済できたの。助かりました。

 
ホテル勤めをやめて、那覇市内に「歩」という小さな店を開いたのは30歳のときです。昼間は踊りに専念し、夜は料理店を切り盛りする、二足の草鞋わらじを履く暮らし。それは、琉球舞踊も見せる郷土料理店「穂ばな」を50歳で開いてからも、しばらく続きました。
47歳で、沖縄タイムスの芸術選賞大賞までいただき、弟子もたくさん抱えて、私は琉球舞踊の世界で高い評価を受けていたんです。でも……50歳を過ぎて自分が苦しくなってきた。踊りも料理も手を抜けない真剣勝負。だからこそ、これ以上、両方を続けることはできない。考え抜いた末に、58歳で舞踊の世界から完全に身を退き、琉球料理一筋に生きることにしました。
どうして?とよく聞かれます。踊りは相手をこっちの技術で「うまいな」と錯覚させられる。いい意味で相手をごまかすことも、芸のうちです。だけど料理は、絶対に相手をごまかせない。それに琉球舞踊の踊り手は増えたけれど、琉球料理の本物が消えていく危機感もありました。昔ながらの豊かな食文化を伝え続ける使命が、自分にあると感じたのです。

 
『おとなスタイル』Vol.4 2016夏号より

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