• > 沖縄の花街、母から娘へつなぐ本物の琉球料理 [おとなスタイル]

沖縄の花街、母から娘へつなぐ本物の琉球料理 [おとなスタイル]

2016年11月05日(土) 09時00分配信

『琉球料理乃山本彩香』の店内にて

沖縄の陶芸家・國吉清尚さんの作品を中心に店内に展示したり、料理によっては実際に使用したりしていた。
沖縄の花街には本物の料理がありました

幼い頃、養母の崎間カマトさんと。 決して裕福ではなかったけれど、小さい頃から上質なものを食べ、着せられていた

沖縄の花街には本物の料理がありました

私が料理を職業にしたのは、幼い頃から口にしてきた、母から受け継いだ琉球料理があるからです。
母、と書きましたが、正確にいえば養母です。私は沖縄出身の母と、本土の父が結婚してできた子ですが、両親がとても貧しかったために、2歳のときに母の姉のところへ養子に出されました。

踊り子時代の山本さん

養母の名前は崎間カマト。沖縄の花街である辻で、芸妓をしていました。沖縄で尾類(ジュリ)と呼ばれる芸妓は、踊りや音楽で男性をもてなすだけでなく、料理の腕も磨かなければならなかった。というのも、本土の花街では家庭の匂いをさせないように仕出し屋から料理をとりますが、辻はそうではなく、朝晩の料理をすべてジュリが用意したんです。

沖縄の花街の歴史は古く、1944年に太平洋戦争の空襲で焼き尽くされるまで、約300年も存在したといわれます。辻が最も栄えた頃には170軒以上の遊郭が建ち並び、ほとんど女性だけで運営していた。辻は女たちによる自治組織でした。そこへ政財界の要人や教育者、街の富豪たちがやってきて、ジュリが腕をふるう琉球王朝伝来の美味を味わい、細やかなもてなしを受けた。辻はそれなりの身分を持つ男たちの、社交場の役目もしていました。

沖縄のアグー豚。「啼き声以外はすべていただく」大切な食料

昔の沖縄(おもに首里、那覇)では、家庭の主婦は家族の食事を作るだけで、おもてなしのようなことはしませんでした。それらは、辻で行われていたんです。だからお盆と正月には、ジュリは料理を作ってパトロンの家へ届け、「いつもご贔屓ひいきにしていただき、ありがとうございます」と先方の奥様に感謝の気持ちをあらわす習慣がありました。

辻には、家が貧しくて沖縄の地方から家族を助けるために5~6歳で売られてくる子もいるんです。でも、うちの母、崎間カマトは那覇士族の血筋で、傾いた家を助けるために16歳のときに自分から辻に身を置いた。そんな人だから舌が肥えていたんですね。

琉球王朝の包丁人(料理人)から直接料理を習った津覇ウトゥさんという人が辻にいて、この方から母は料理を教わった。天性のものを持っていたところへ、洗練された最高級の琉球料理の技術が加わって、母の料理は特別においしかったです。その母の料理を食べて私は育ったのです。
生みの親と別れ、2歳で東京からやってきた私が、辻で暮らして10ヵ月目の写真があります。きれいな着物を着せられ、髪飾りをつけて、腕には時計をはめ、本革の小さはハンドバッグを持っている。崎間カマトはそういう人でした。
本当にいいものを食べさせて、いいものを着せてくれました。自分の肌に触れ、舌で味わったものは、自然にからだが覚えるじゃないですか。だから私に「これ、芭蕉布です」と見せたら、本物かどうか一目で見抜けますよ(フィリピン産なども今でも多いですね)。そういう目を肥えさせたのは、この育ての母なんです。

 

『おとなスタイル』Vol.4 2016夏号より

【関連記事】

NEWS&TOPICS一覧に戻る

ミモレ
FRaU DWbDG
  • FRaU DWbDG
  • 成熟に向かう大人の女性へ
  • ワーママ
  • Aiプレミアムクラブ会員募集中!

このページのTOPへ戻る