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知れば旅がもっと面白くなる! ハワイの偉人たち [FRaU]

2016年05月30日(月) 18時00分配信

よく聞くあの名前の由来をたどろう

ビーチやショッピングも楽しいけれど、もっとハワイを知りたくなったら今度は歴史を勉強してみよう!

ハワイを訪れたことがある人ならば、”クヒオ通り”、”カラカウア通り”、”カピオラニ公園”などと言った名称はおなじみだろう。それらはすべて、ハワイの歴史を語るうえで欠かせない、重要な人物の名前にちなんだものだ。

現在はアメリカの州のひとつのハワイだが、以前は独立した王国だった。カメハメハ1世によってつくられたその王国は、1893年の終焉まで、カメハメハ2世、3世、4世、カメハメハ直系最後の王の5世、国民投票によって選ばれた初の王ルナリロ、カラカウア、唯一の女王にして王国の最期を見届けたリリウオカラニと、8人の王と女王によって守られた。また、王族のひとり、カメハメハ1世の直系であるバーニス・パウアニ・ビショップは、カメハメハ5世の求婚を断り、アメリカ人と結婚したが、祖国に対する強い思いを忘れることはなかった。パウアヒの死後、夫チャールズはその遺志を継ぎ、“カメハメハ・スクール“とポリネシア文化に関連したコレクションが多く展示された“ビショップミュージアム“の設立を実現するなど、妻の残した莫大な遺産はすべてハワイのために使われた。次の旅では、その“ビショップミュージアム“はじめ、カラカウア王によって建設され、11年間公邸として使用されたイオラニ宮殿などを訪れたり、歴史ツアーに参加するのはどうだろう。
カメハメハ大王  [ 1758 (?)~1819 ]

圧倒的な軍事力と指導力でハワイを統一

カメハメハ大王 [ 1758 (?)~1819 ]

日本でもおなじみのカメハメハ大王。カメハメハとは孤独な人という意味。幼い頃、「いずれ支配者たちを殺すことになる」という予言のもと、人里離れた場所で育てられたそう。強大な軍事力と指導力で1810年にハワイ諸島を統一、ハワイ王国の礎を築いた。外交にも長け、クック以来、頻繁に訪れるようになった欧米諸国とも積極的に交流し、その技術を取り入れた。
カラカウア王  [ 1836-1891 ]

“陽気(メリー)な君主(モナーク)“と呼ばれた王の功績

カラカウア王 [ 1836-1891 ]

カメハメハ5 世の死後、王は選挙で選ばれるようになった。貴族院の議員として活躍していたカラカウアは、2度目の挑戦で念願の王に就任した。ハワイの伝統を守ることに力を入れ、近代化するハワイで忘れられつつあったフラを復活させた。日本とハワイの関係を深めるために尽力したことでも知られる。ハワイ最大のフラのイベント「メリー・モナーク」は彼を讃える場でもある。
カピオラニ王妃  [ 1834-1899 ]

カラカウア王が深く愛した妻

カピオラニ王妃 [ 1834-1899 ]

カラカウア王の妻。風邪をこじらせ幼くしてなくなったカメハメハ4 世の子の世話人であったカピオラニは、そのことに大きな責任を感じ後悔していた。その心を癒やしたのが王になる前のカラカウアだった。二人の結婚は批判を受けたが、夫婦の愛は生涯を通して変わらなかった。夫とともにハワイの伝統文化の復興に力を入れ、彼女が書いたメレ(歌)もたくさん残されている。
カイウラニ王女  [ 1875-1899 ]

優雅で美しい、悲しき王女

カイウラニ王女 [ 1875-1899 ]

カラカウア王の姪にあたり、ハワイ王国最後の王女として知られるカイウラニ。ハワイにおけるクーデターを知ったのは、留学先のイギリス。17歳の彼女は絶望を胸に抱えながらも、渡米しその不当性を訴えた。この若きプリンセスの教養にアメリカ人たちは感服し賞賛をしたが、その思いは届かず、1898年ハワイ王国は消滅する。その1 年後、風邪をこじらせ23歳で死去。

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