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跡の4回転ジャンプを成功させて日本中の期待を一身に集めたのが、わずか14歳の時。日本中が彼女をチヤホヤし、しかしオリンピックに出る頃にはもう“ピークを過ぎた”と言われ、大失敗をしてわずか18歳で“引退”を考える。ご存知フィギュアスケートのトップアスリート、安藤美姫ちゃんの数奇な運命、紆余曲折。バッシングもされたはず、でもあれだけしつこく追っかけたマスコミから突然無視されてしまうほうがむしろ悲しかったかもしれない。
けれどかすかに聞こえてきた「諦めないで頑張って」というファンの声に「やっぱり私応えなきゃ」と立ち上がり、厳しい練習に耐えて世界選手権で優勝、完全復活を果たす。それでもなお19歳。
それどころか、あの18歳のオリンピックで自分は大惨敗を喫しながら、金メダルを獲った荒川静香のところにすぐに駆けつけ、祝福のハグをしている。果たしてそれはものすごく“オトナ”だからできたのか? まだ全然コドモだからできたのか?
一体どっち?と一瞬わからなかったが、わずか1年後にリベンジを果たした時、あの祝福はものすごく精神的にオトナだからできたのだと知り、改めて驚いたもの。あんなに舌足らずなしゃべり方をするのに、何十歳も年上の私より、ずっとオトナじゃない? と。
それもふつうの人が一生かかっても体験できないような激しい浮き沈みを“成人”する全然前に済ませた結果。とにもかくにも経験が人をオトナにするのは間違いないのだけれど、でも尋常ならぬ過酷な練習も人をオトナにするのだという生き証人。つまり、そういう紆余曲折のひとつひとつをそっくり“オトナの心”に変えたのが、やりたいこともガマンして過酷な練習で鍛えた精神なのだとすれば、すごく賦に落ちる。オトナの心って、そうやって作るものなのだって。
だから年をとることが“オトナ”になることじゃない。そんなことはずっと前からわかっていたけれど、近ごろますます年をとることがオトナになることじゃなくなっていく気がしてる。
昔の女にとって、確かに“年をとること”と“オトナになること”が、ほぼ同じ意味を持った。なぜなら昔は、とっても若いうちに“嫁”に行き、瞬く間に母親になり、何人もの子供の親となる。同時に自分個人の欲望みたいなものは封印して、自分を無理に“オトナにする”しかスベがなかったのだから。自分の欲よりも、責任感とか義務感とか忍耐力とか、そういうもので心の中をいっぱいにするしかなかったのだから。それこそ“オトナになる”しか道はなく、年齢とともに見事に老成していったものなのだ。
そうこうするうちに孫もできちゃえば、もっとオトナになるしかないわけで、昔の人はそうやって既成事実を作ることでオトナになり、オトナを強いられたからこそ、煩悩を捨てることができたのだと思う。
でも今は正反対と言ってもいい世の中。母親になるならない以前に、オトナの女は自分の欲望を満たすことをすなわち“幸せ”と呼ぶから、年をとってもとっても、オトナにはなれない仕組みになっているのだ。
なのに年は一年一年とっていくから、こんなひずみも起こってくる。“オトナ”にならないうちに老けてしまうこと。“オトナの心”を持たないうちに何か形から老けていってしまうこと。けれど、本人はよもや自分がオトナになりきっていないなんて思っていない。見た目に年をとった分だけ、オトナになったつもりでいる。何となくそれって、美容的にもちょっと問題な気がするのだ。老ける前に“オトナの心”がちゃんと養われてないと、老けがそっくり醜く見えちゃうからである。
女の体はそういう意味で本当によくできていて、若い頃は見たままのキレイで勝負できるけれど、肌が少し衰えてきたり、目尻にシワが出てきたりした時、その代わりになる何らかの魅力を養っておかなければならない。それが“オトナの心”、“オトナの心”がしっかり育っていれば、衰えが単なる衰えに見えない。年数を重ねて価値が上がっていくワインのように別の美しさに見えてくる。シワがシワに見えず、たるみがたるみに見えずに、ヴィンテージワインのオリのようにとっても有難いものに見えてくる。そういうものだと思うのだ。そういうことも含めての美容だと思うのだ。
だから、オリンピックで大挫折を体験したり、大復活を遂げたりするような人生は送れなくても、せめて自分は惨敗しても勝者をハグして祝福してあげられるようなオトナ心を持ちたい。それがあると、女は結構いつまでもキレイでいられる。抽象論ではなく、ビジュアルとしてキレイに見えるのだ。絶対に。そういう人は「あの人、老けちゃって」とは絶対言われない。いくつになってもオバサンって絶対呼ばれない雰囲気を醸し出している人っているものだけど、要は精神的に完成した女こそ、不思議に老けが目立たないのである。
つまり、オトナな女は老けない。だからいっぱいいろいろ経験して、失敗も挫折もいっぱいして、ちゃんとオトナになっておくこと。それもアンチエイジング。 |
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“落ち目”という 感覚について 考える |
10代のうちは、肌も“持って生まれた肌質”のまんま。けれど20代に入るともう、肌質にもぼんやり“人格”みたいなものが現れ出るようになる。ちょっと早すぎやしない?と言うかもしれない。生きてきた結果が顔に出るから、自分の顔に責任を持てと言われるのはむしろ40代から。20代は大げさじゃない?と。でもスキンケアとメイクを始めた瞬間から、肌は意外なほど“つくり方”しだいになってくる。それもお手入れの量とかメイクの腕とかの問題じゃない。むしろ作り手の性格がファンデーションの仕上がりにさえ現れ出てしまうということなのだ。
とても単純に、気持ちが不安定な時って、ファンデーションも肌から浮いてしまいがち。本人は気づかないかもしれないが、肌づくりって精神状態がモロに出る。心のバランスがとれている人は、それこそカバー力と透明感のバランスもとれた仕上がりになるが、気持ちのバランスが悪いと、仕上がりのバランスもくずれがちなのである。
言い換えると、どこか非常識な部分があると、必ずメイクのどこかにそれが出てくる。ストレスがたまっていると肌に出るみたいな話とはまったく次元が異なるが、これも心が肌に出るひとつの形なのである。つまり、精神年齢がオトナな人ほど、肌年齢はむしろ若く見えると、そう言ってしまっていいと思う。だからなおさら、大人な女ほど老けない」 |
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