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 に優しく、自分に厳しい女・・・・・・女としても人としても、これは最高の女。誰にも嫌われず、成長も早い。魂レベルの高い大人になれることは間違いない。
しかしながら“人への優しさ”と“自分への厳しさ”のバランスがちゃんと取れている人は、むしろ少ない気がする。つまり、優しいというよりは人に甘い、厳しいというよりは自分をギセイにしすぎてしまう、身を粉にして人に尽くしてしまう女の方が多いような気がするのだ。そしてこういう女は、単純に損である。人を許して、自分ばかりを責めてしまう、そういう女もまた浮かばれないのだ。そしてまた、自分を追いこんで追いこんで、いつもひとりで辛くなっている女も少なくない。“自分に厳しい女”は、基本的には正しいのだけれど、わりに簡単に厳しさの度を超えてしまいがちなのである。
そういうふうに、厳しすぎて自分を追いこんでしまう女には、たぶん3種類いる。ひとつは“向上心”が前のめりになりすぎて、自らつくるハードルを高くしすぎるために、それを飛び越えられなくて苦しむ女。
“自分に厳しくすること”は、確かにハードルを高くして、それを飛び越えるための努力をすることに他ならないが、高すぎるハードルを前に、なぜ飛べないの? なぜ飛べないの? と自分をただただ責めたてるのは“厳しさ”じゃない。だって、中学校レベルの実力しかないのに、いきなり大学レベルにハードルを高くしてしまったら、虚しく苦悩するに決まってる。
“向上心”で自分を追いつめつづけてしまっている人は、自分に厳しくすることで、どんどん自信を失い、結果として自分をダメにしてしまいがち。もっと自分のサイズに合った向上心をもち、レベルに合った厳しさで自分を制さないとアブない。ともかくもう少し楽なコースを選ぶべき。
ふたつめは“ねばならない”という厳しい規制で、自分をがんじがらめにしてしまう女。何でもかんでも“ねばならない”。あるいは自分の信念に反することは何でもかんでも“してはならない”。“must”で自分を励まし“must”をエネルギー源に生きてしまう。それ自体は立派なことだが、自らつくった規制を守ることだけに必死になってしまうと、大事なことを見失ったりもしがち。
ある学者が「“〜ならない”と言うと、人は何も生まない、“〜しよう”と言うと、人は思いがけない力を出す」と言っていたが、たとえばの例として「学校の廊下は走ってはいけない」と言うと、みんな妙におどおどした歩き方になるが、「学校の廊下は正しく歩きましょう」と言うと、みんな美しい歩き方になり、自然に姿勢が良くなるみたいなこと。
自分に対しても同じことなのだ。“ねばならない”ばかりを自分に押しつけると、まったくゆとりのない“おどおど”あるいは“ギスギス”した生き方になっていく。でも同じことも“〜しよう”と自分に投げかけるだけで、悠々とそれをこなし、次は何にしようかと、物事に対していちいち前向きになっていけるはずなのだ。同じ仕事量をこなすのでも、えらい違い。心の中で自分が自分に言う言葉も、“〜ねばならない”から“〜しよう”に変えよう。それだけで、ずいぶんと楽になり、上手に生きられる。心の中、頭の中に“ねばならない”がいっぱいある人は“自分に厳しく”ではなく、一日も早く“自分を励ます”べきなのである。
そしてもうひとつは、“全部を自分のせいにする女”。“人に厳しく、自分に甘い女”とは、要するに何でも人のせいにして生きているタイプを指すが、“人に優しく、自分に厳しい女”は、ちょっとでもバランスをくずすと、何でも自分のせいにし、何でも自分をギセイにしてしまいがちなのだ。
これが、それなりの地位にある人間なら、社員の失態はすべて自分の責任と言える“立派な人”ってことになるけれど、地位も権力も何もない人間が、すべてを自分のせいにしても、誰もほめちゃくれないし、一層みじめなだけ。“自分に厳しくする”とは、そうやって自分をわざわざかわいそうな人にすることではないのだ。
小さな子供は、母親が泣いていたりすると、それはすべて自分のせいだと思うらしい。またペットの犬は、飼い主が夫婦ゲンカなんかしていると、それは自分のせいだと思うらしい。子供も犬も、親や飼い主への純粋無垢な愛情があり、自分にはこの人がどうしても必要と思うから、なんでも“自分のせい”になってしまう。
同様に、恋愛していて相手のことをあまり好きになりすぎたりすると、誰が見たってぜんぜん自分のせいじゃないことまで自分のせいにすることで、相手をつなぎとめようとする。でもそれ、プライドを捨てていることになりはしないだろうか。
“自分に厳しい女”は、本来いい意味でプライドが高いから、いろんな意味でのハードルを高めに設定し、それを越えようと努力するけれど、たぶん“自分のせいにする女”は、そのいい意味でのプライドがないから、自分に辛く当たっちゃうのである。多少ともプライドをもてば、自分で自分を傷つけ、「あなたのせいよ」と自分を責めたりしないはず。自分に冷たく当たるのもいいかげんにしないといけない。自分に厳しいことと、自分に辛く当たることは、本来まったく別のこと。ホントは相手の男がどうしようもない男なのに、うまくいかなかったことで、自分を責めつづけるなんて、自分に意地悪すぎる。どんな厳しい親だって愛情があるから厳しくなれるわけで、“自分に厳しい女”も、愛情のない厳しさを自分に向けちゃダメ。自分を愛しく思わなくなった恋愛なんて、もともと間違いなのだから。
さあどうだろう。度を超した“向上心”、“ねばならない”の強制。何でも“自分のせいにする”プライドと自分愛の欠落。どれか思い当たるものはないだろうか。今のままでは少なくとも“人に優しく”・・・・・・はなれない。自分に厳しくしても、ちゃんと前に行けるゆとりのある人じゃなきゃ、人に優しくするゆとりだって生まれない。ただひたすら“自分に厳しい女”は、自分のことに精一杯、だからつまらない女になりがち。目標はあくまでも“人に優しく、自分に厳しい女”であることを忘れずに。 |
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人に優しく、 自分に厳しい女は、 厳しさを人に見せない |
“人に優しく、自分に厳しい女”というと、いつもまっ先にその存在が思い浮かぶ女性がいる。ただ、彼女はいつも穏やかで、人にはとても優しいが、優しすぎないところがミソ。苦言を呈すべきところでは、相手を決して傷つけないよう、そして全面否定にならないよう、巧みに配慮しながら、ていねいに想いを伝える。
そして一方、自分に厳しいといっても、自分をガンガン追いこんでいるような姿を見せたことがないし、辛そうな様子も見えない。でも、明らかに自分に厳しい人であることはわかるのだ。この人に学んだ2つのことは、“人に優しく、自分に厳しい人”は、どちらも行きすぎない、2つがほどよい量でバランスを取っていること。また人に優しいことはわかるが、自分に厳しいことは、他人には伝えないこと。これ見よがしに厳しさを出したりはしない。ふつうは“自分に厳しい女”を見ていると、見ている方が息苦しくなるものだが、彼女の場合、人を疲れさせるような厳しさをもつのは、“人への優しさ”に反するから、見せないようにつとめているだけかもしれない。
でもかつて、夜中も夜中、2時3時まで一緒に楽しく飲んでいて、店を出たら、自宅とは違う方向へ行く車を拾おうとしている。「あれ?」って言ったら、「じつはまだ仕事が残ってて、会社にもどるの」となぜか申し訳なさそうに言う。これぞ人に優しく、自分に厳しい人・・・・・・。 |
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