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“肌の露出”そのものに、色気はない。ましてや、露出の量が増すほどに、色気も増すと考えるのは、とても愚かで危険なことである。しかし“ある種の露出”が、そこはかとない色気につながることは確か。たとえば、チャイナドレスを思い出してみてほしい。首もとをキュッとしめ、くるぶしまでのロング丈、つまり露出は決して多くない。にもかかわらず、世界中の“民族衣裳”でこれほど色っぽい服はない。言うまでもなく、体のラインをとことん美しく際立たせるしくみと、脚のつけ根まで届いてしまいそうな深いスリットが切られているからだ。
この2つの要素が“素”のままの女の体や、“素”のままの女の肌を、イヤというほど想像させる。ヌードより、セミヌード、セミヌードより“ヌーディーな着用”のほうが、はるかにセクシーであるのと一緒。想像だけさせて相手をさりげなく突き放すほうが、ずっと美しい色気につながるのである。
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女の肌を想像だけさせる……それはたとえば、スーツを“インナーなし”でじかに着るようなこと。トレンチコートを着た胸元から素肌がのぞくようなこと。しかしそれもあくまでスーツやトレンチコートをセンスよくカッコよく着ようとした結果に他ならない。つまり意図的ではないからこそ、そこはかとない色気が生まれるのだ。“ある種の露出”とはそういうこと。チャイナドレスの深いスリットも、ああしないと歩けない、必然性ある深さ。だから美しい本物の色気が匂うのである。 |
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フリルがいっぱいついた、女っぽいブラウスと、文字通り“何の色気もない”シンプルすぎるほどの白いシャツ……これは皮肉にも“何の色気もない”シャツのほうが結果的に色っぽい。フリルのブラウスのデザインを確かめるまでもなく。なぜなら、女っぽいものより、男っぽいもののほうが、むしろ“女”を強く際立たせるからなのである。
香りもそう。香りを女っぽくするために必ず使われる“パウダリー”の香りに“そそられる”という男はむしろ少ない。香りにおいても、逆に甘さをおさえた、どこか男っぽい潔さを持った香りのほうが男心をそそるのだ。女の香りが女っぽいのは当たりまえ。いや香水をつけるという行為そのものが、もう“色気”を発していると言っていい。そこにさらに女っぽさを上のせするような香りだと、自ら積極的に肌を露出しているのと同様、異性からすると少しアザとく見えるのかもしれない。
だから、シャツでいいのだ。それ自体に何の色気もないシャツだからこそ、それを着る人の中に息づく“色香”をハッキリと引き出し、際立たせる。それが、女が服を着るうえでの“色気のメカニズム”なのである。
スーツもどこか男っぽいデザインのほうが女っぽいし、コートもトレンチのように本来が男のデザインのほうが女っぽい。ただし、スッピンにショートヘアで少年みたいにそれらを着てしまうと、そのまんま退屈そうな女を作るのであしからず。“充分な女”が女を押し売りせず、媚びのない男っぽいものを着るから“女”がよけい際立つという、その方程式を忘れぬこと。 |
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“女っぽさ”より“男っぽさ”のほうがセクシーを匂わせやすいと言ったが、それも色気は“色気と対極にある要素”をぶつけないと成立しないから。
どういうことかと言えば、色気は他のものと組み合わせて中和して、そっと置いておくくらいが美しいってこと。色気だけで100%埋めてしまうと、
“色気のオバケ”になってしまい、色気という“本当は目に見えないもの”がまったく伝わらなくなってしまう。だから組み合わせるべきものは、色気と反対側にあるもの。たとえばそれが男っぽさであり、また清楚とか清潔感であり、可愛さやキュート、あるいはまたカジュアル感やスポーティー感だったりするわけなのだ。
逆から言えば、マニッシュは色気をかけ合わせて初めて、“カッコよく”なるのだし、清楚も色気が加わってこそ、しっとりとした女らしさを匂わせるのだし、可愛さも色気があってこそ、アザとくない大人の可愛さになる。カジュアルだって、色気がひとつもなければただの退屈なファッションになってしまう。色気は“かくし味”として加えると、つまらない装いが何とも味わい深い、センスある装いとなる。色気をそういうスパイスとしてとらえてみるのはどうだろう。
言いかえれば、色気を主役にしようとするから失敗するのだ。そうではなくて、色気をスパイスとして加えれば、色気もすっきりきれいに際立ち、対極の要素もセンスよく際立つ。色気にまつわるオシャレのキモがそこにある。 |
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センターパートだった髪をサイドパートに変えたら、今日は色っぽいネ、なんて周囲に言われた、そんな経験はないだろうか?
センターパートが俗に“美人分け”と言われるように、シンメトリーは美人をより美人に見せるバランスと考えていいが、その美人然とした正統派のバランスを少しくずしたところに、色気が宿るからなのだと思う。
いわゆる美人の黄金バランスにぴたりとハマるような美人はつまらない。シンメトリーすぎる美人には、異性を惹きつける力が宿らない。そういうことだろうか。
オシャレで言えば、さりげなく着くずすところに色気が生まれる。もちろんだらしなくならないように。たとえば、トレンチコートもエリを立て、そでをロールアップし、ベルトもきちんとベルトじめせずに、キュッとヒモ結びしてしまう……そういう着方がナチュラルな色気を生むということなのだ。
ちなみに、シャツのボタンを“もうひとつ開ける”あのスタイルに色気が宿るのも、じつは露出が多いからじゃなく、きちっとした白いシャツを少しくずして着てしまう、その感性に宿るもの。だってブラぎりぎりまでボタンをはずして、豊満な胸の谷間がいっぱい見えても、その分、色気が増えるものではない。色気は露出量ではなくセンスに宿るという、動かぬ証拠である。 |
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ケーブルテレビで、昭和30年代くらいの古い映画をやっていた。ヒロインは当時まだ20代半ばくらいの浅丘ルリ子さん。未婚の初々しいOLを演じている。なのに驚くほど色っぽい。ああ私たちが求めていたのは、この色っぽさ、この艶っぽさだったのだと思い知る。明らかに今の女にはなくて、この時代の女にあったもの。それが今のマダムが備えるべき色気だったことにここで初めて気づくのだ。
ひとことで言うと、“しとやかな色気”。“しとやか”は今やほとんど死語だが、それがあるからいろんな瞬間に色気が匂い立つのは明らかだった。
たとえば、イスに腰をかけるのでも、背すじをぴんとのばして、ヒザをぴたりとつけて2本の脚を斜めにすうーっとのばす、今ではほとんど見られなくなった古いお行儀だが、そういう体の中に宿ったしとやかさ、それがあるから、脚を組みかえたり、上半身をひねったり、イヤリングにさわったり、髪をかきあげたりするだけで、いちいち色気がふき出すのである。つまりそういうベースがないままに、色っぽい仕草だけを取ってつけるから、作為的に見えるだけで、少しも色っぽくないことを思い知ったのだ。“しとやか”を少しくずすから、色っぽい。それが仕草における色気のメカニズム。30代からの色気は、“しとやか”とセットで。 |
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