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色気には、いろんな誤解があるけれど、まず女が考える“女の色気”と男が考える“女の色気”が微妙に異なること、気づいていただろうか?
女はわりと単純に、胸が大きくて化粧が濃いめ、肌の露出の多い女性はみんな、色気があるのだと思っている。色気ってそんなに単純なものじゃないって、どこかでわかっていながら、でもどうせ男の人はそういう女が好きなのでしょう? と皮肉まじりに思ってしまうのだ。
しかし男が考える“女の色気”は案の定もう少し複雑だ。考えてもみてほしい。私たち女も筋肉マンみたいなマッチョな男の体を見て「色っぽい」と言うだろうか? シャツのボタンをおへそのあたりまで開ける男を「なんてセクシーなの」と思うだろうか? そういうストレートなこれ見よがしの媚態には、逆に拒否反応を覚えるものなのだ。
異性に見る色気とは本来そんなわかりやすいものじゃない。少なくとも私たち女はもっと目に見えないものに“男の色気”を感じようとしている。サッカー選手の汚れたユニフォームや、オーケストラを指揮する指揮者の髪の乱れや、またセーターを着た夫の背中の大きさなどに“色気”を見たりする。男も同じなのだと思う。束ねてアップにしていた髪をはらりとほどいた瞬間や、組んでいた脚を組みかえる瞬間に色気を感じるという男が多いのだ。一瞬の仕草に女の命がフラッシュのように輝くからなのだと思う。
あるいはまた、キッチンに立つ妻の後ろ姿や、パソコンをものすごい速さで打つOLの姿にグッときてしまうという男も少なくない。何かに一生懸命な女やデキる女にこそ色気を感じる男の心理が見えてくる。だから、隣の席にいる平凡な感じの同僚が、いきなりめちゃめちゃうまい英語をしゃべり始めた時、彼女に初めて色気を感じたとか、初めてゆっくり話をしてみた女性の話題の豊富さ、話のうまさに、この女、なんてセクシーなんだと思った、みたいな声もある。
もうわかったと思う。男は意外なほど、女の知性に色気を感じる生き物なのだ。
いや、百歩ゆずって20代までは、もっとわかりやすい色気を形にしても、色気として通用するのかもしれないが、30代をすぎたら知性が土台にないと、色気は自分の薄っぺらさを露呈するものになってしまう。知性のある女が、一方で“女”を強く感じさせるところに色気が宿る、そう言ってもいい。女が考える“女の色気”はたぶん間違っていたのである。 |
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じゃあ、不世出のセックスシンボルとうたわれたマリリン・モンローの場合は、どうなのだろう。グラマラスな肢体、輝くブロンドに白い肌、誘うような濡れた唇に息のまじったなまめかしい声。まさに絵に描いたような色気である。しかし、あの人の色気を「“本物”でなかった」と言う人はいない。モンローは完璧にセクシーだった。ここで言う、知性に裏打ちされた色気ではないのになぜ?
私たちが見逃しがちなのは、モンローが持っている圧倒的な清潔感である。ぞくぞくするほど妖艶なのに、奇跡的に清潔、こんな両立は、この100年をざっとふり返っても、この人一人しかいない。わかりやすい色気、妖艶さは清潔感と高次元で両立しているからこそ、この人は奇跡のセックスシンボルとして世界中を魅了したのである。
あのブロンドの髪にも白い肌にも一点のくもりもなく、顔だちは幼さを残した端正な美形、豊満な肢体にもしどけなさはない。頭のてっぺんからつま先まで、圧倒的に清潔だから、あのむせ返るような色気も見事な色気としてちゃんと人を魅了したのだ。でないと時の大統領までが虜になったりはしないのである。 |
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もうひとつ、色気に絶対不可欠なのは、異性を求める心。逆を言えば、男性に関心のない女には、色気は決して生まれない。ゲイの男には、彼がいくら美しくても色気を感じないのと同じ。色気の基本は、自分の性に対する強い自覚なのだ。自分は女。だから必然的に男を愛したい、その素直な気持ちに宿る引力が、すなわち色気なのである。
つまり、異性を求める気持ちさえあれば、それだけで人はセクシーに見えるから、それ以上に色気をわざわざ形にする必要はないのだ。上のせされた色気はだからアザとく見え、ウソっぽく見え、薄っぺらく見えるのだ。色気は知性の土台に支えられた性の自覚、生き生きした命のまたたき、つまりとても重厚なものなのである。であればこそそういう色気が、白いシャツのボタンをもうひとつ開けただけで作れるのは、20代まで。30代からの色気はもっと体の中のほうから湧きあがる深いものでなければいけない。日本の女が考える“色気”はそこが少し間違っているのではないだろうか。 |
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