ファッションもメイクも、これまで何度となくこの“'60年代”をテーマにしてきた。いや“'60年代”はほぼ永遠に女性美の壮大なテーマであり続けるのだろう。でもなぜ?・・“'60年代の女”は、男たちにもっとも愛された女たちだからである。
写真家や映画人も、あの時代以上に魅力的な女を描くのは至難の業、いやもう無理かもしれないとまで言ってしまう。それもやっぱり'60年代の女は、歴史上最高に大人モテした女たちだったからじゃないか。
でもどちらが先だろう。美しかったから愛されたのか? 愛されたから美しくなったのか? たぶんどちらも正解。2つの歯車が完璧に噛み合ったからこそ生まれた“地球の結論のような女性美”を、21世紀の男たちは未だに熱く見つめてる。郷愁からではなく、ときめきを持って。
オードリー・ヘップバーンのキュート。ブリジット・バルドーのコケティッシュ。そしてカトリーヌ・ドヌーブのノーブル。どれもモーツァルトの楽曲みたいに、すべての人の心をふるわせ、やがて柔らかい快楽の中に引き込んでいく。そう、この時代の女性美は強烈に心地よいのだ。時には壁にかけられた絵のように、時には窓から見える景色のように、ずっと眺めていたい、眺めていても飽きないだけの密度と完成度があった。
たぶんそれに比べたら、21世紀の私たちは少々ひとりよがりになりすぎた。“モテ服”“モテ顔”を追い求めてはいるけれど、多くが思い込み。上すべり。本当の意味で愛されるための切実なモテ技にはなっていない。しかし'60年代の女は、しっかりと相手の目の奥に自分の姿を映しながら、いちばん愛される自分を探し当てていた。時には命と体を投げ出して。だからあそこまで、有無を言わせぬフェミニティを構築できたのである。
オシャレや美容は熱心になればなるほど、自己満足なものになる。鏡の前で自分だけを喜ばせるものになる。それで自分が幸せならいいが、でも女は愛されてこそ女、男の心を千々に乱せてこその女、大人モテの第一歩は、そこである。モテたいのではなく、命まるごと愛し愛されたい……そう思うことなのである。 |