まず、私はこう思う。ジュエリーが似合わない女は、たぶんこの世にひとりもいないって。それこそ、シワだらけの老婦人が大きなダイヤをつけていても、丸々太った中年女性が少ししつこいくらいにたくさんのジュエリーをつけていても、また、おくるみのレースでかろうじて女の子であることがわかるくらいの赤ちゃんが、小っちゃな指に米つぶみたいなベビーリングをつけていても、不思議にぴたりとおさまってしまう。洋服なんかよりよほど優しく大らかに女を受け入れてくれる。地球上のすべての女性に、ジュエリーはあまねく似合ってしまうのだ。たぶん地球が育み、人間が磨いた石だから、そして女を飾りつけることが、ジュエリーのたったひとつの使命だからである。
でも、その代わり、いつどこでどんなジュエリーをつけるのか、どんな理由でジュエリーを欲しがるのかで、“女”としてのひと通りを問われてしまう。それはひとえにジュエリーがこの世でいちばん無駄なものだから。そしてこの世でもっとも女性濃度が高いものだからなのだろう。
たとえば結婚が決まるやいなや、エンゲージリングの“立てづめ”をオフィスにも毎日つけて行く女と、頑なにつけていかない女がいる。そこに垣間見えるのは、自分の幸せを胸にしまっておけない女の“女性濃度”の濃さと、幸せをしまいこむ女の社会性。そして、ジュエリーの価値を、ひたすら金額で測る女と、あくまでデザインだと思う女がいる。どちらが正しいとも言わないが、金額だと思っている女はやがて“次はもっと大きなジュエリーを買うこと”だけが一種の趣味になっていく。そういう価値観を絶対持てない女たちは、だからジュエリーを買うことには、何の興味も持たないのだ。私って、女じゃないのかしらと時々不安に思うほど……。
でもココ・シャネルもこう言った。「私はビジュウなんて好きじゃない。人生に何の意味ももたらさないから。でも好きじゃないのは、宝石のための宝石ね。一晩だけ人に見せるために取り出して、ディナーが終わるとまたしまうような」と。
「でも女は基本的にビジュウをたくさん持っているべき。ただもしそれがすべて本物だと、これ見よがしで悪趣味なものになる。私が作るのは、ひどい偽物だけど、とてもきれい。本物よりずっときれいなぐらいね」そうやって生まれたのが、ファッションのために必要なボリュームと華麗さと粋を持った、コスチュームジュエリーだったのだ。
「街の中では、みんな模造をつければいい。本物のビジュウは、家にいるとき、自分の楽しみのためにつければいいのよ」
これはあくまで、シャネル個人の価値観である。しかし、そこに共鳴する人は多いだろう。圧倒的にエレガントなのに、その精神は男性的でもあったその人は、宝石の美しさと“それが合計いくらなのか?”を、ハッキリ分けたかったのだと思う。シャネルスーツにジャラジャラ重ねるジュエリーがもし本物だったら、6億だか7億だかになってしまうでしょ、と笑ったというから。
ちなみに、今はハリウッドでもカンヌでも、赤絨毯の上を練り歩く女優たちの首もとにジュエリーはない。“ノーネックレス”がトレンドなのだ。それでもゴージャスに見えることが、新しい美の基準となりつつあるのだろう。一度つけてみてから外す、そんなジュエリーづかいが新しいのである。 |