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漫画家・ヤマザキマリさんが辿る須賀敦子 【結婚期間編】 [おとなスタイル]

2016年05月28日(土) 09時00分配信

イタリア人の夫との、6年の結婚期間

翻訳者として日本文学とイタリア文学の架け橋となり、初めて書いたエッセイは見事ふたつの文学賞を受賞。そのとき、日本が誇る名エッセイスト・須賀敦子さんは61歳でした。彼女の生き様を、漫画家・ヤマザキマリさんが辿ります。

この都心の小さな本屋と、やがて結婚して住むことになったムジェッロ街六番の家を軸にして、私のミラノは、狭く、やや長く、臆病に広がっていった。
~『コルシア書店の仲間たち』~

1953年、24歳だった敦子は、比較文学の研究の為に神戸港を発ってパリへ渡り、パリ大学に入学するも、フランスの空気や言葉に馴染むことができず、留学を続ける自信を失いかける。しかしその間に旅行で訪れたイタリアの古都に強く惹かれて、フランスからいったん帰国した後に今度はこの国へ向かうのである。

イタリアにはカトリックの総本山・バチカン市国があり、カトリックの人口は国民全体の9割に当たる。カトリックに改宗し、カトリックの学校でキリスト教の理念を吸収した須賀敦子の知識欲はもっとこの宗教の事を、深く、細かく知る必然性を求めていたに違いないのだが、当時のイタリアは、そんな彼女を当惑させると同時に強く魅了するような思想や理論で満ち満ちていたはずだ。

そういえば、カトリック信者である私の母も私がイタリアへ渡る時には、通っていた最寄りの教会の神父に頼んでラテン語で「洗礼証明書」なるものを作らせ、娘がカトリック教国の雰囲気にすんなり馴染んでいけるように計らったが、イタリアへ渡った私が仲良くなったのはフィレンツェ大学で左派の運動をしている、唯物論者の学生達や作家や芸術家だったのである。

1940年、銀座で。左から良子(妹)、敦子、万寿(母)。(県立神奈川近代美術館所蔵)

須賀敦子が渡った頃のイタリアは、ファシズム政権の残した挫滅的な爪痕を掻き消そうと、キリスト教民主党やイタリア共産党が力強い意志を掲げて台頭していた時代だったはずであり、映画界でもまだネオリアリズムが種火となって残り続け、あらゆる作品に、資本主義や宗教観に身を委ねた社会のあり方を問いかけ続けていただろう。確かに寛容で揺るぎない家族愛に満たされ、食べる事や喋る事に費やすエネルギーを惜しまないイタリア人達の気質は普遍的ではある。ただ、戦後間もないイタリアでは、それまで信じていればいいと教えられてきたものを鵜呑みにはできない、気骨な懐疑心と知識への貪欲さがそういった人々の中に芽生えていた。

『コルシア書店の仲間たち』を読んでいると、たとえそこに並べられているのが静謐な文章であっても、私には自分達の思想や意見を大きな声でぶつけるイタリア人達の声が聞こえてくるのだが、そんな環境は知識欲旺盛だった敦子にとっても刺激的だったに違いない。彼女はこの書店の経営者であるペッピーノ・リッカというイタリア人男性と恋に落ち、結婚をし、彼が亡くなるまでの6年の間にたくさんの日本の文学をイタリア語に翻訳した。ペッピーノは彼女の人生にとってつかの間の伴侶ではあったが、この人との出会いがなければ、須賀敦子という、秀抜な文学作品を生み出す文学者も生まれてくることはなかったかもしれない、と私は感じる。

<ヤマザキマリさん プロフィール>
漫画家。1967年4月20日生まれ。14歳でヨーロッパひとり旅へ。その後17歳で渡伊、11年間油絵を学ぶ。以降、中東、ポルトガル、シカゴと移り住み、現在はヴェネツィア在住。著書に『テルマエ・ロマエ』『プリニウス』『スティーブ・ジョブズ』など多数。

おとなスタイルVol.2 2015冬号より

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