• > 漫画家・ヤマザキマリさんが辿る須賀敦子【父親編】 [おとなスタイル]

漫画家・ヤマザキマリさんが辿る須賀敦子【父親編】 [おとなスタイル]

2016年05月19日(木) 09時00分配信

経験も知識も豊富で、世間に縛られなかった父

翻訳者として日本文学とイタリア文学の架け橋となり、初めて書いたエッセイは見事ふたつの文学賞を受賞。そのとき、日本が誇る名エッセイスト・須賀敦子さんは61歳でした。彼女の生き様を、漫画家・ヤマザキマリさんが辿ります。

私がはじめてパリに留学することになったとき、父は大よろこびで、(中略)毎晩のように寄港地の説明をした。
もういいよ、パパが行くんじゃないでしょう、と冷たく私にあしらわれながら。
~『ヴェネツィアの宿』より~
須賀敦子は芦屋で事業を営む裕福な家庭の子女であった。彼女は建築についての造詣も深かったそうだが、実家の事業というのは下水道などの水回り関係や、衛生機器の輸入・製造などをしていたと知って、「もしご存命だったら私の古代ローマ漫画を読んで頂く機会もあったかしら」などと余計な事を思ってしまうが、その事業を跡取りという立場で営んでいた敦子の父・豊治郎は、決して積極的にその仕事に取り組んでいたというわけではないらしい。
豊治郎は1936年、30歳のときに家業のための視察という目的で、家族を日本に残して世界一周の旅に出ている。それは日本では2・26事件の起きた年であり、どこに視線を向けても大戦勃発前の不穏な空気が漂っていたのではないかと思うが、そんな最中に豊治郎は世界一周旅行をして、ヨーロッパ各地の上下水道や空調設備を視察し、ベルリンオリンピックを見物し、オリエントエクスプレスにも乗って、イギリスとアメリカ経由で帰国した。
私の手元の資料に、やはり1940年代前後の須賀家の子供たちが写っている写真(P144参照)があるが、印象的なのはカメラの前に立つ敦子や妹・良子の凜とした、それでかつ闊達で天真爛漫さを感じさせる表情だ。その写真の背後にこれから世界で起ころうとしている怪しい雲行きの翳りは見えない。須賀敦子と同じ世代の私の母も、やはり外国に長く暮らした父親を持ち、ミッションスクールに通う裕福な家の子女だったが、同時代の彼女の写真はどれも不安な翳りを帯びた表情をしている。そして、彼女の後ろに立つ両親の表情も、どことなく暗い。
そう考え ると、おそらく、敦子の父・豊治郎は贅沢もので、短気で情動的でありながらも、当時の日本の男性にしては、経験も知識も豊富で、世間に縛られない開かれた ビジョンを持っていた人だったのだろう。やがて、慶應の大学院に通っていた敦子にヨーロッパへ渡る事を推したのも彼であり、彼女がイタリアへ改めて留学し た時は森鴎外の『即興詩人』の文庫本を送り、「ここに出ている場所全てに行ってください」という命令調の短い文が添えてあったという。この父親は、娘がカ トリックに改宗したいと申し出た時こそ反対はしたものの、基本的に自分や、そして自分の家族が、可能な限り知識と感性の糧となりそうな領域には積極的にど んどん足を踏み入れて、それを謳歌してもらい、そして自分も謳歌したいと考えていた人だったのではなかろうか。だいたい行動力のある読書家という人間は、 楽観的なマイペースで、破天荒を好むようにできている。

<ヤマザキマリさん プロフィール>
漫画家。1967年4月20日生まれ。14歳でヨーロッパひとり旅へ。その後17歳で渡伊、11年間油絵を学ぶ。以降、中東、ポルトガル、シカゴと移り住み、現在はヴェネツィア在住。著書に『テルマエ・ロマエ』『プリニウス』『スティーブ・ジョブズ』など多数。
おとなスタイルVol.2 2015冬号より

【関連記事】

NEWS&TOPICS一覧に戻る

ミモレ
FRaU DWbDG
  • FRaU DWbDG
  • 成熟に向かう大人の女性へ
  • ワーママ
  • Aiプレミアムクラブ会員募集中!

このページのTOPへ戻る